国も時代も越えたその先で、人の上には何が立つ『POLITICAL MOTHER THE CHOREOGRAPHER'S CUT』

『POLITICAL MOTHER THE CHOREOGRAPHER'S CUT』

4月6日・9日・10日の公演を観劇しました。

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舞台に限らず、KAT-TUNが関わった作品については、自分が感じたことを常に何らかの形で記録するようにしています。

今回は初見である6日に綴った考察(というよりも、私なりの解釈)に、9日・10日は気付いたことを書き加えていく方法を取りました。

 

以下はそれを合算して清書したものです。

 

 

 

序幕

客電が落ちると、暗闇に溶けた舞台上に、ぼんやりとバイオリンやチェロが浮かび上がった。

子守歌のような穏やかで優雅な弦の響きの後、音楽は耳を劈くようなエレキギター、全身を叩かれるようなドラムや大太鼓が客席の空気をガラリと変える。

 

ステージの奥はまるで雛壇のようになっており、バイオリンやチェロはちょうど三人官女の位置にいる。ティンパニは五人囃子、内裏雛の位置にエレキやドラム、大太鼓がある。

音楽が鳴り響く中、一筋のスポットライトの下、雛壇の手前に甲冑姿の侍が現れた。
侍は鞘から刀を抜き、そのまま自身の腹に突き刺した。侍が呻き声を上げながら倒れたところで、物語は幕を開ける。

 

1.「ポリティカル」に現れた一人の政治家


この舞台の構造は雛壇の演奏者=「天」と、民衆を演じるダンサー=「地」にはっきりと分かれている。地で踊る民衆は、常に天で奏でられる音楽の下に位置することになる。

 

民衆の服装は薄汚れていて決して裕福には見えないが、タンクトップ、赤いドレス、ホットパンツにハイソックスなど、それぞれ多様な服の形と色彩が宛がわれ、一人ひとりがファッションを選択していることが伺える。設定としては、中世の西洋といったところだろうか?

民衆のダンスは、全員で一体となることもあれば、2つ3つのグループに分かれたり、1人が違う振付をこなしたりと自由自在に動く。さながらそれは動く絵画のようだ。美術館の額縁の中にいるような民衆が、そのまま命を宿し、生活を営んでいる。

 

そして天の中でも一番上、内裏雛の位置のちょうど中央に、上田竜也は現れる。1度目は黒いスーツ姿、2度目は軍服姿だ。

 

この舞台では「ポリティカル語」というオリジナルの言語が用いられている。

日本語でも英語でもない架空の言語のため、観客は、演者の衣装や身振り手振り、声のトーンで何を話しているか汲み取る必要がある。

言語の名称に合わせて、踊る民衆が暮らす国を、仮称としてポリティカルとする。

ここでの上田竜也は、ポリティカルで活躍する政治家を演じている。ボイスチェンジャーを使った機械的な声は、どこか遠い存在であることを思わせる。けれど音楽と演説に合わせる民衆のダンスは非常に力強い。民衆が政治家に期待と信頼を寄せていることが伺えた。その信頼を勝ち取ったからこそ、立派な軍服を着用できる地位までのし上がったのかもしれない。

また、このシーンではステージ上に薄いスモークが焚かれていた。このスモークにより、目の前の民衆の動きははっきり、けれども奥に位置する演奏者や上田竜也はやや曇って見えることになる。

視界の中で明瞭さを欠いている天の様子はまるで蜃気楼のようで、本当に手の届かないところにいるような、神々の宴を彷彿とさせる神秘性を強めていた。

 

 

2.現代のロックシンガー

ここでの上田竜也は、赤いチェックのシャツにジーパン姿で登場する。叫ぶように、魂を迸らせるように激しく歌い上げる。その歌はポリティカル語として観客には聞こえる。

ポリティカルの民衆と比べると、この上田竜也の衣装は明らかに時代が下っている。例えば劇場の建つ渋谷の街にそのまま出て行ってもすぐに馴染めそうな、本当に普通の若者のような服装だ。

ここでの上田竜也は現代で、歌を職業としている青年だった。言うなれば人気ロックシンガーという役どころだろうか。

本作品の振付・音楽を務めたホフェッシュ・シェクター氏が、上田竜也のライブパフォーマンスを見て主演のオファーをしたこと、そして公演開催国のアーティストを主人公に起用するのは世界で初の試みであったことを考えると、もしかすると設定も日本としていたのかもしれない。

spice.eplus.jp音楽で人を魅了するその姿は、演説でもって民衆を導く政治家と同じパワーがある。

 

3.制限されていく民衆の自由

 舞台に流れる時代は再び遡り、中世のポリティカルへと戻ってくる。ぴたりと音楽が止むのと同時に、ポリティカルの政治情勢が変化する。
これまでポリティカルの民衆は、貧しくも各々が好きな服を着て自由に踊り、表現をすることに身を委ねていた。
しかし、彼らの衣装は突如として個性を失う。

皆が皆、揃いも揃って同じベージュ色の服になる。皆で両腕を上げるその姿は、降伏の意や、手錠を掛けられている様子を示しているのだろうか。同じ服を着た暗い顔の民衆の姿は、まるで囚人や奴隷のようだ。

民衆の間では、時折恋人同士が嘆き合うようなダンスや、逆らう者を牽制するような銃声が挟まる。それまでの民衆の自由な生活が抑圧されていく。

 

この抑圧された民衆のシーンでも2つの上田竜也が登場する。1つ目は胸元が大きく開いた白いシャツにだぼっとしたモスグリーンのワイドパンツ姿、2つ目は黒いスーツ姿、つまり先に登場した政治家の姿だ。

 

 白いシャツ姿の上田竜也は、スローテンポになった音楽に合わせるように、マイクスタンドを相手にゆったりと腰を振る淫らな動きをする。ボタンを外し、上半身の肉体を露わにしながら、恍惚とした表情を見せる。

政治家や軍服と比較してもラフな服装であることから、この白シャツの上田竜也は、赤いチェックのシャツ姿だった現代のロックシンガーと同一人物なのでは、と考えながら観劇していた。

赤いチェックのシャツ姿が表舞台で活躍する歌手としてのオフィシャルな側面で、白いシャツの姿は欲望を満たすプライベートの様子といったところだろうか。音楽で発散し切れなかったエネルギーを、性欲へ投じているようにも思えた。

 

シェクター氏は、公式パンフレットに再録されている、本作品が初めて上演された2011年時のインタビューで、作品の中核を占めるアイデアのスタートを「満たされない心」としている。

 最初は、『満たされない心』について考えるところから始まりました。我々の身近な生活、国家との関係、帰属意識愛国心にまつわる「満たされない心」について、です。

 誰もが愛情を求めながら、どこか満たされない思いを抱えています。それはなぜなのか。私は両親、母なる地球、この国を作った人々との間にある、感情的なつながりについて考えを巡らせて探求していきました。その結果、政治的システムと温かで心地よいパーソナルな存在が、つながりを保ちながら共存するのは難しいという事実にたどり着きました。

 その事実は私の興味をかきたてました。ポリティカルという言葉とマザーという対極の言葉の組み合わせが、非常に興味深く思えたのです。

 

2回目の登場となるスーツの政治家は、1回目とは少し様子が異なっている。

1回目に登場した政治家は、凛と胸を張り、高らかに、力強い演説を見せていた。国の未来のため、民衆のため、自らの固い意志を伝えようとするジェスチャーが中心だった。

一方、この場面で出てくる政治家(以下、政治家´と表記)は、民衆をコントロールすることそのものに心酔をしているように思えた。

政治家´はゆったりと、オーケストラを統制する指揮者のように両手を振る。指揮をしたまま民衆が動く、その体験の快感を思い起こすように、最後には膝をつきながら大きく腕を振り、天を見上げながら口許を緩めた。

政治家´の場面では、地にいたポリティカルの人々が少しずつ舞台袖に消えていく。政治家´はそれに気がつかず、ただ指揮者のように腕を振り続ける。それは自分自身の力に溺れ、支持率の低迷に気が付ない愚かな政治家の末路を喩えているかのようだった。

 

この白シャツと政治家´に共通するのは、口角を上げて愉しそうに笑っているというところだ。それはどこか一人で夢中になって快楽の海に溺れているような、周囲の見えていない自分本位さが垣間見える。

 

ちなみに政治家´の下から民衆が離れていく中、最後にぽつんと、政治家´を見上げる一人の女性ダンサーが舞台に残る。その女性を諭すように、男性ダンサーが近づき、政治家´から女性を引き剥がす振付が挿入される。
物語ではこの他にも男女ペアが5組ほど出てくるダンスシーンがあるが、男性が女性に跪くような振付がある。

もしかするとあの演説の中で政治家が打ち出したのは、女性支持を得られる政策、女性の立場を優遇する政策だったのではないだろうか。

 

なお、現代と定義した白シャツのシーンでも地のステージに中世のポリティカルの民衆が登場する。

そして民衆の中に、冒頭で切腹した侍と同じ甲冑を着た、かつての(恐らく、中世のポリティカルと同時期の)日本人を模した数人のダンサーもさりげなく集団のダンスの中に混じるのだ*1

つまりこのシーンでは上田竜也という存在を起点に、天と地の間で、国も時代も交錯していることになる。

音楽の才能が拾い切れなかったエネルギーを性的な交わりへ投じるロックシンガーと、民衆の信頼が潰えても最後まで女性が惹き付けられる政治家。そしてその役を演じるのは、女性からの支持層が圧倒的大多数を占める男性アイドル。

ポリティカルマザーという造語に対し、私はこの一連のシーンに、物語の意図と、上田竜也を起用した理由に強く意味の重なりを感じてしまう。

 

 

4.反旗を翻す民衆/風刺としてのゴリラ

 やがて民衆は政治に反旗を翻した。
まるで自由を取り戻すかのように、自治を取り戻すかのように、民衆はベージュの囚人服のまま各々に踊る。時折向けられる政治家からの視線を避けながら、踊ることを諦めない。

このシーンでは唯一、黒いスーツを着た政治家が天から地へと降りてくる。政治家が地に降り立つと民衆はぴたりと足を止め、その場をやり過ごすように一列になって従順に腕を上げる。この時後ろで手を組みながらゆったりと民衆の間を縫うように歩く政治家の頭には、ゴリラの仮面が被せられていた。

ゴリラの仮面は、民衆のダンスシーンの合間合間にも登場する。天でマイクを持って叫ぶスーツ姿のゴリラが一瞬だけスポットライトを浴びる瞬間が2~3度挟まるのだ。

民衆の声をまともに聞けず、自分自身の支配力に酔った政治家´を皮肉った表現といったところだろうか。

 

 

5.「前世の自分=政治家」への気付き

ポリティカルの民衆の服はまたしても変化する。
民衆はパーカーやTシャツなどを着用し、極めて現代風の服装になった。時代が下った現代のポリティカルを意味しているのだろうか。
民衆はかつてのようにダイナミックなダンスを観客に魅せる。現代のポリティカルは各々が自由にダンスをすることが再び許されるようになっていた。表現することを政治の手から取り戻していた。 

 

上田竜也は、再び妖艶な白シャツの姿に戻る。

腰の動きはさらにエスカレートしていった。正常位のようにスピーカーに腰を打ち付ける。無我夢中で欲望を貪り倒す。音楽という才能の器の中からエネルギーが溢れ出していよいよ止まらなくなる。

その後、白シャツの上田竜也はマイクスタンドを振り回しながら激しいシャウトを繰り出す。爆発する感情を声でも力でも会場の空気に向かって暴れ倒す。気が狂ったようにマイクスタンドを叩きつける。

【※青字部分については、下記の備考でもう少し掘り下げます】

 

ロックシンガーが我を忘れてマイクスタンドを振り回す中、パーカーやTシャツを着た現代のポリティカルの民衆が徐々に舞台の中央に集まり、天を見上げ始めた。

この時民衆は一切踊らない。まるで政治家の不正に、綻びに気が付いたかのような冷たい視線を天に送る。

そしてロックシンガーはふと、地を見下ろす。まるで自分の暮らす世界に、ポリティカルという国も時代も全く異なる世界が隣り合わせていたことに気が付いたような――

 

全ての役柄を通して、上田竜也が視線を地に落とすのはここが唯一の場面である。

現代の日本と、現代のポリティカル。時代は違ってもこのシーンでの天と地の流れている時間は同じ。だから互いを認識できた?

 

まとめると、

 

<主人公の2つの人生>

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 <主人公と民衆の関係性>

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生まれ変わっても、力を持つ者の宿命のように上田竜也演じる主人公は身を滅ぼす。

白シャツと黒スーツ政治家´は、自分自身の持つ音楽や言葉の力を持て余している。だからこそ国境と時代を超えてリンクし合えた?

 

 

6.現代のポリティカルマザー

上記の通り、ポリティカルの民衆の服は現代風に変化している。
ある者はパーカーを羽織っており、またある者はカラフルな袖のチュニックを身に纏っていたりと、普段着のような服装だ。

時代が下った現代のポリティカルは、各々が好き好きに自分を、集団を、ダンスで表現している。

しかし、それまで描かれていた、自由に表現することが許された中世のポリティカルと決定的に異なる点は、誰か1人が明らかにテンションの異なる、奇抜な踊りを行った際、民衆はその1人に同調することも放っておくこともなく、まるで軽蔑するようにじっと見つめることだ。

ある男性ダンサーが床に寝転がるブレイクダンスをした場面が顕著で、自分自身を表現する男性に対し、民衆はその男性を取り囲み、何も言葉を発することなく見下ろしていた。

 

舞台に現れる文字は

Where there is pressure there is folkdance

プレッシャーのあるところにフォークダンスはある

 

ブレイクダンスをしている男性を取り囲んでいた民衆はやがて互いに手を繋ぎ、輪になってゆらゆらと身体を動かす。そして囲まれていた男性は身体を起こし、その民衆へ静かに混ざり直すのだ。

民衆はWhere there is pressure there is folkdanceという文字の下で一列になって手を繋ぎ、全員で腕を上げる。

全員で腕を上げるそのポーズは、まるで揃ってベージュの服を着ていた、政府の元で囚人と化していたかつてのポリティカルの民衆を彷彿とさせた。

 

独裁政治におけるプレッシャーは頂点に立つ政治家であることは言うまでもないが、一般的に今日の世界情勢においては民主主義の方が発展を遂げていると推測される。
では民主主義におけるプレッシャーとは何か?
フォークダンスは基本的に複数で踊るものだ。複数人が同じ振付を踊ることで完成する。
中世のポリティカルでは、個人が集団から離れて踊ったり、そのうちまた集団に戻ったりを繰り返しても基本的に受け入れられていた。

一方このシーンでは、一人が違う動きをすると、皆が足を留めたり、ハンカチ落としのように取り囲んだりしてダンスを中断する。
私はこの「人と同じ動きをしていく」「空気を読む」という同調圧力こそが、連帯感としてフォークダンス(=社会)を作り上げている…という解釈をした。
時代が下って、明確な独裁者がいなくなっても、我々は見えないプレッシャーによって、自由を抑圧されていることに変わりはないのかもしれない。

 

終幕

ポリティカルの人々が約75分間演じてきたダンスを逆再生していく。
それはまるで映画のエンドロールのように、各シーンを思い出させる。
侍が自分に刺さった刀を抜いて、腹を着るために刀を構えるポーズを取ったところで物語は幕を閉じる。ポリティカルからすれば異国ではあるが、侍が自害する動機、その背後にある支配者あるいはプレッシャーは、案外似たようなものなのではないだろうか。

 

 

【備考】上田竜也の「憑依」を引き起こした4/10公演のマイクトラブル

5で触れた、上田竜也がマイクスタンドを大きく振り回し、一番激しく感情を露わにするシーンについてだが、4/10公演でマイクの音声が入らなくなるトラブルが発生した。

それまでの公演では、ポリティカル語でシャウトをした上でマイクスタンドを振り回し、床へ叩きつけるというパフォーマンスがなされていた。

 

しかし、このトラブルによって、上田竜也の中で「スイッチ」が入った、一つ上の段階へ意識が上擦ったのを確かに観客は目撃した――たった1シーンだが、個人的には非常に、鮮烈な出来事だった。

 

マイクの音声が入らなくなったのはシャウトをしたその瞬間からだった。

マイクの不調に気が付いた上田竜也は、一瞬口許から離し、もう一度強く叫んだ。けれどもマイクの音声はやはり入ることは無い。

その時上田竜也の目に宿った、増幅する苛立ち、思い通りにいかない息苦しさと怒りが宿った、燃えそうなほどぐらぐらと煮立った瞳の強さが、理性を忘れた獣のようで、あまりにも恐ろしかった。

一番に浮かんだ感情は紛れもなく恐怖そのものだった。

 

壊れたマイクを舞台の下手に向かって投げ捨てた上田竜也は、腰を伝うイヤモニのコードが浮き上がるほどぐわんぐわん体を揺らしながら、地声で何かを叫んだ。絶叫した。

マイクスタンドを手に取り、床に叩きつける。歪んだマイクスタンドも放り投げ、スピーカーをガンガン蹴りつける。

 

実は前日の公演でも上田竜也はこのシーンでマイクスタンドを曲げてしまい、カーテンコールで歪んだマイクスタンドをわざわざ舞台袖から持ってきて、自分が座長であるにも関わらずそのマイクスタンドを舞台の中央に置き、(ごめんね)と両手を合わせる仕草をした後、観客にマイクスタンドへ拍手をするようジェスチャーを見せるほっこりエピソード(?)があった。

しかし、この時既にマイクスタンドは、そんな前日のものとは比べ物にないほど、ぐにゃりと折れそうなほどねじ曲がっていた。

前日は、マイクスタンドそのものに衝動をぶつけた結果曲がってしまったという感じだったが、この日の公演はむしろ逆で、自分の力を自分自身が上手くコントロールできない、周囲が自分のパワーに噛み合わない「世界そのもの」を叩き壊そうとし、その結果としてマイクスタンドが歪んだといった方が良い。破壊の対象がまるで逆のように見えた。

それでも上田竜也の演じる人物に宿った苛立ちは収まらない。一度放り投げたマイクスタンドを改めて拾い上げ、床を、背後の壁のセットを、力の限り叩き壊し出したのだ。

さらにねじ曲がっていくマイクスタンド、壁に施された塗装が取れ、割れて剥き出す木材――それでも叩きつけることをやめない上田竜也に、正直背筋が凍った。あまりにも、怖かった。恐ろしかった。

どう見たってあの目は正気じゃなかった。どこまでが演技なのか本当に分からなかった。

 

上田竜也は過去に、演技に目覚めたのは2011年に出演したTBS系ドラマ『ランナウェイ~愛する君のために』とした上で、「自分が自分じゃなくなる瞬間、与えられたキャラクターが勝手に動き出す瞬間が好き」と話していたことがある*2

そんな演技に目覚めたという2011年頃は、ドラマの役柄が勝手に動き出すのを越え、普段の本人のキャラクターそのものへ直に影響されていく現象が上田竜也の中に起こっていたように思う。

上田竜也の演技力もこの頃からめきめきと上がり始め、元々の性格が非常に純粋なのか、役柄が自分のアイデンティティそのものにまで侵食するその様は、ファンの間で「憑依」と呼ばれているのをよく見かけたし、私もその表現をよく用いていた。

ただ、その憑依もだんだんとバランスを上手くコントロールできるようになったのか、今年の1月から放送されていた日本テレビ系ドラマ『節約ロック』では、振り切ったギャグシーンも多いコメディーフルスロットルな役柄でも、本人のキャラクターそのものにさほど影響は見られなかった。

それはきっと役柄との棲み分けが器用になったことの表れなのだろうが、一方でほんの少し寂しいと感じてしまう自分がいたことも事実だ。

 

だからこそ、この日のトラブルから生まれた一連の破壊衝動はまさに「キャラクターが動いた」としか言いようがない様子で、上田竜也をただ純粋に「怖い」と感じられた自分に、ドクドクと心臓が動いた。目が離せなかった。体から力を抜くことが出来なかった。

 

現代を生きながら才能に食われていく自分自身が、人々を魅了し支配する力に自分自身を支配されるほど制御できなくなっていく様子が、かつてポリティカルを統べ、壊れていった自分自身と重なり、そんな政治家の果てを見抜いた民衆の視線は、自分が音楽で食べていく中での観客と重なる。

政治家が演説の機会を奪われることは、歌手が歌う機会を奪われることと同義――自分の発信することに民衆が賛同しなくなるこのシーンでこのトラブルは、まるで神様の悪戯のようで、偶然にしてはあまりにも残酷だ。

その残酷さが、上田竜也の演技のスイッチを入れた。

 

演技に目覚めて間もないあの頃のような、自分自身までもを巣食う、物語と現実の見境を無くした上田竜也ともう一度出会わせてくれた6日間に、この記事を持って最大級の賛辞を贈りたい。

 


Hofesh Shechter - Political Mother - Trailer

 

公式トレーラー映像、あの時の高揚した気持ちを呼び起こすのに大変お世話になりました。

シェクターさん、上田くんを見つけてくれてありがとう!!!

 

*1:なお、この甲冑姿の数人のダンサーだけで踊る場面も登場する。ポリティカルの民衆のダンスシーンは夕暮れのようなオレンジ色のライティングだったのに対し、侍によるダンスシーンは月明かりを彷彿とさせる青白いライティングだったのが印象的だった。

*2:『Myojo』2012年8月号10000字ロングインタビュー「裸の時代~僕がJr.だったころ~」上田竜也